<スペシャル対談> 小泉英明さん×阿川佐和子さん

2024.06.24

<スペシャル対談> 小泉英明さん×阿川佐和子さん

脳神経科学者が語る、子どもの未来を創る科学と愛情の対話
〜 子どもの成長に必要な教育の本質とは?

今回のスペシャル対談では、脳科学の第一人者である小泉英明先生と、作家・エッセイストとして活躍する阿川佐和子さんが、子どもの成長と教育の本質について熱く語り合いました。

都市部に住む子どもたちに「真の体験」を提供するSAYEGUSA &EXPERIENCEの取り組みを背景に、小泉先生が脳科学の視点から、幼少期の愛情とスキンシップが脳に与える影響、自然体験の重要性、そしてデジタル時代の子育ての課題について深く掘り下げます。これらのトピックに対する小泉先生の専門的な見解は、きっと皆さんの興味を引き付けることでしょう。

小泉先生が語る言葉には、多くの親御さんが抱える疑問へのヒントが散りばめられていると思います。対談を通じて明らかになるのは、子どもたちが健全に成長するための新たな視点と具体的な指針、そしてSAYEGUSA &EXPERIENCEの活動が持つ意義です。

子どもたちの未来を築くための大切な知見を、小泉先生と阿川さんの対話から見つけ出してみてください。この対談が、皆さまの一助となることを願っています。

Photo : Ko Tsuchiya

小泉 英明(Hideaki Koizumi)

脳神経科学者。日立製作所名誉フェロー。1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業、同年日立製作所計測器事業部入社。1976年東京大学に論文を提出し理学博士。2000年 基礎研究所所長、2003年 技師長、2004年 フェローを経て 2017年より現職。

「心と脳の科学」という新たなtransdisciplinary分野を提起し、道を拓いた研究者として世界に知られ、偏光ゼーマン原子吸光法の創出‧実用化による環境計測をはじめに、f-MRIや光トポグラフィー他による脳機能計測技術を通じて脳科学から「新人間学」「脳科学と教育」「進化教育学」など新しい学術分野の創成に寄与。

東京大学先端科学技術研究センター フェロー‧ボードメンバー、公益社団法人日本工学アカデミー( EAJ)上級副会長‧国際委員長、国際理工学アカデミー連合(CAETS)理事、中国工程院外国籍院士‧東南大学栄誉教授、米国‧欧州‧豪州などの各種研究機関や財団のボードを兼務/歴任。

幼児教育・育児の分野では、日本赤ちゃん学会創立副理事長、文部科学省/国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)「脳科学と教育」領域総括、Japan Children’s Study(すくすくコホート)研究統括、経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」国際諮問委委員、文部科学省中央教育審議会教育課程部会委員、東京大学大学院教育学研究科・教育学部外部評価委員などを歴任。

東京大学客員教授・北海道大学教授(客員部門)・第55代日本分析化学会会長・内閣府日本学術会議(SCJ)連携会員や省庁の多くの審議会・有識者会議で構成員・主査など歴任。環境・医療などの分野で、多くの新原理を創出して社会実装した。大河内賞計3回、米国R&D100賞計2回受賞(IR100賞含む)他。近著に『アインシュタインの逆オメガ: 脳の進化から教育を考える(Evolutionary Pedagogy)』(パピルス賞受賞作品、文藝春秋社刊)。

阿川 佐和子(Sawako Agawa)

1953(昭和28)年東京生れ。作家 慶應義塾大学卒業後、報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館 1999)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社 2008)で島清恋愛文学賞を受賞。その他の著書に『強父論』(文藝春秋 2016)『スープ・オペラ』(新潮社 2005)『うから はらから』(新潮社 2011)『ギョットちゃんの冒険』(スタジオジブリ編 大和書房 2008)『聞く力』(文春新書 2012)『叱られる力』(文春新書 2014)『話す力』(文春新書 2023)など多数。父は作家の阿川弘之。

三枝: SAYEGUSAは子供服屋として長年、多くの都市部の子どもたちと接する中で、彼らが本物の自然や、家族や教師以外の人と触れ合う機会が少ないまま、学校や習い事に忙しい規則的な生活を送っていることに気づきました。その経験を元に、新事業「SAYEGUSA &EXPERIENCE」を2022年8月に立ち上げました。
子どもたちの未来を豊かにするような「真の体験」を提供できる方法を模索しているさなかに、幼児教育・育児を脳神経科学の観点からご研究されている小泉先生とのご縁を頂いたことは、私たちにとって、非常に重要な意味があると考えております。今回の対談では、
子どもの幼少期の過ごし方や本物の体験の重要性を教えていただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。




褒めて育てることの重要性

阿川さん(以下敬称略): まず私自身の経験をお話しさせて頂きますと、私の父は癇癪持ちで、褒められた記憶がほんの少ししかないんです。家ではいつも緊張していて、父から怒られるのを避けるためにどうサバイブするかが課題でした。そんな環境でも、私なりに楽しい場所をみつけていたと思います。褒めて育てることと、厳しくしつけること、どちらが良いかは時代や個人差もあり、一概には言えないと思いますが、脳はどのように反応するのでしょうか?

 

小泉さん(以下敬称略):非常に本質的なご質問ですね。脳科学の研究には多くのエビデンス(実証的な裏付け)が必要です。私たちもOECD(経済協力開発機構)の「学習科学と脳研究」や文部科学省の「脳科学と教育」という大型研究プロジェクトを推進してきました。厳しくしつけるか、褒めて育てるかの効果についても「コホート研究」(前方視的集団追跡研究)によって、褒める時期がある方がその後の社会性が増すことが分かりました。

乳児の頃、特に1歳半からの1年毎の調査では、褒めて育てると3歳半の時点まで社会性の発達が促されることが分かりました(Japan Children’s Study:すくすくコホート)。乳児期にはできるだけ愛情を注ぐことが重要なんですね。泣いても叱らず、赤ちゃんの目を見て愛情たっぷりに接することが脳の最初の発達には良いのです。これにはスキンシップも含まれます。例えば途上国では、カンガルーみたいに自分のおっぱいの間に赤ちゃんを入れて育てるところがありますが、そのようなカンガルーケアなどの実践が、赤ちゃんにとって非常にプラスになることも分っています。赤ちゃんと母親(養育者)の互いの信頼関係や愛着(アタッチメント)が不可欠なのです。

 

阿川: 2歳くらいまでの記憶はほとんどないと思いますが、潜在意識に刻まれるということですね。「やっぱりここは心地よい喜びの場所だ」と。

 

小泉:はい。共感性・意欲・行動力など、社会能力の前駆要素に関係する神経系の発達を促すのです。育児の神様と言われた愛育病院の内藤寿七郎先生(日本小児科医会初代会長、1906 – 2007)も豊富な経験から、たっぷりな愛情と褒めることの大切さを指摘しています。躾(しつけ)は次の発達段階になって初めて必要になってくるのです。

 

阿川: いわゆる最近、ジェンダーの問題が色々と議論されるようになってきました。以前は、母性が必要だと言われ続けていましたが、今は父親が育児を担うケースも増えてきています。乳を与えない人間でも愛情を注げば健全に育つのでしょうか。両親が揃っている場合、それぞれの役割についてどう考えるべきでしょうか。

私自身の経験では、父が非常に厳しく2歳くらいの時から「出て行け」と言われることもありましたが(笑)、母には愛されているという確信があったため、安心できたんだと思うんです。これが、私が道を外さずに成長できた理由かなと。

 

小泉:どちらでもいいんです。母親であれ、父親であれ、重要なのは愛情を持って接する養育者の存在です。母乳が必須だと誤解されがちですが、哺乳瓶でも十分に愛情を伝えることができます。大切なのは、その行為自体です。そして、その行為を自分自身で心を込めて行うことが重要です。大事なのは、抱きながら赤ちゃんの目をしっかり見ることです。脳神経科学の観点からも、生まれて最初の視覚的な経験は心に直結することが分かりつつあります。赤ちゃんが、母親や父親と見つめ合うことで、心からの安心感や信頼感が形成されます。

 

阿川: その行為が大事なんですね。目を見るというお話で思い出したのですが、フランスの介護方法では、認知症や体が動かない人への対応で、「目を見て同じ高さで話すことが非常に重要だ」というものがあるそうです。特に日本人は目を見ることは失礼だと思ったり、恥ずかしいと思ったりするから、「大丈夫ですか」って言いながら看護師さんやお医者さんは患部しか見ない。でもそれだと、患者とのコミュニケーションが取れていないというのです。

 

小泉:進化の観点から見ると、人間以外のほとんどの動物は目を見ると敵意を感じます。野生動物にとって、目を見られることは攻撃のサインと捉えられるからです。しかし、人間の場合は目を見てコミュニケーションを交わすことが進化の中で発達してきました。現生人類がはじめて同情(Sympathy)のような「高次の共感性」を獲得することによって、高度な社会性を獲得しました。人間は協力しあわないと、野生動物にはまったく太刀打ちできない弱い存在です。

互いに見つめ合うことで、心を通じさせることができるのは、視覚系は脳の中で二つの神経回路が働いているためです。私たちが見ている外界は、眼球の水晶体レンズを通して網膜に逆さの像として映ります。それが外側膝状体を経由して、脳の後ろの部分(後頭葉)にある視覚野で、線分・動き・色などの画像の要素に分解されて、同時に分業処理されます。一般に視覚に関する脳の情報処理は、この膝状体視覚経路で処理されると説明されます。この視覚回路は網膜の像を正確に解析するために時間がかかりますが、もう一つの神経回路は進化の中で、古くに現れた膝状体外視覚経路というのがあります。脳神経科学の最先端で研究されつつある内容を含んでいますが、この経路はおよその画像を高速で処理する神経回路です。これは、脳の上丘という部分を通して情動などを司る偏桃体という部分にも繋がっています。

新生児は、むしろこちらの視覚回路が主に働いていて、生まれたての赤ちゃんも親の目をみたり感じたりできると考えられています。私も自分の孫が生まれた時に確認して写真を撮りましたが、たしかにこちらの目を見ます。実は、新しい動物行動学の観点からも、人間が一緒に育てた犬などのペットは、目を見ても大丈夫だということが最近分かってきました。

感情と共感の進化

小泉:人間の脳は進化の過程で社会性を育む方向へと発達しました。この「高次の共感性」は「階層性を持つ言語」とともに他の動物には見られない現生人類(ホモサピエンス)の特徴です。例えば、「共感」による涙やもらい泣きは人間特有の現象です。共感性と言語によって知性を獲得して、社会を作り上げることができ、地球上で最も繁栄する種になったと言えるのです。

 

阿川:子どもを褒めて社会性を養うっておっしゃいましたけども、都会で育つ子どもたちの人間関係や自然との関係が希薄になっていることが心配されています。自然とたくさん接することがなくても健全な社会性が得られるのでしょうか?

 

小泉:その点も脳の発達の本質に直結した問題です。人間も自然界に生かされる動物の一つの種であり、自然が人間を創ってきたからです。自然と接することなしには、それは難しいと思います。共感性というのはさまざまな階層性をもっていて、原初的な共感性は動物、たとえばチンパンジーや犬にも存在します。例えばあくびがうつるという現象もその一つです。共感性は社会性の基盤であり、自然との関係でも重要な要素です。

 

阿川: 電車の中で眠そうな人を見ると目が覚めるというのは(笑)?

 

小泉:あくびは動物行動学でも研究されていて、あくびのうつり易さは親しさにも関係するとされます。あくびはむしろ覚醒度を上げようとする行動で、ご自分で目が覚めるというのは、本能的な部分よりも知的な部分が働いておられる可能性があるかと思います。もしかして、お父上様が厳しくて、人前で眠そうにしないように躾けられたかもしれませんね。

 

三枝: 我々人間にとって自然の大切さというか、本来私たちは自然界の動物ですから、自然との関わりは当たり前の話です。しかし、現代社会ではその部分が少し失われているように感じますね。

 

小泉:その点については非常に本質的な話があります。人間が学習すると言いますが、「学習」とは何かを学ぶということです。これまで教育学や教育社会学、心理学などでずっと研究されてきましたが、純粋の自然科学としてはほとんど研究されてこなかったのです。脳神経科学からすれば、「学習」とは「脳を作ること」です。その中でも、特に脳の神経回路を新たに作ることが「学習」の本質なのです。

 

阿川: 神経回路を増やすことが学習なんですね。年をとっても可能なんですか?例えば70歳でも?

 

小泉:はい、70歳でも一部の神経回路は増えます。もっと高齢でも、ごく一部には新たな神経が生れる場合もあります。昔の脳科学では、そうは考えられていなかったのですが・・・

 

阿川: あら、まだ学習の余地はあるのか。

 

三枝: 神経回路が増えるというのは、脳と何かの結びつきが強化されるということですか?発想の結びつきや経験、スキルが増えて、それが応用されていくようなイメージでしょうか。

 

小泉:神経そのものが増えるのではなく、神経回路が増えるということです。つまり、神経の接続が増えるということです。神経そのものは「三つ子の魂百まで」というように、そのぐらいの時期にほとんど決まってしまう部分もあります。昔から環境か遺伝子かという議論があります。遺伝子でその素材が用意されてしまっているケースもありますが、同時に、環境がその素材を生かすという点がより本質的です。

例えてみれば、遺伝子が準備する素材は煉瓦ブロックのようなものです。煉瓦の積み方次第で、いろいろな家が建ちます。どのような家にするかは、環境からの外部刺激で決まる部分も多いのです。煉瓦の積み方は、5感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)による外部情報によって、発達とともに、より高次の神経回路が作られることに相当します。そして個人の脳ができあがって行くのです。性格などの基本的な部分は遺伝子の素材によることも多いのです。

 

阿川: なるほど、だから遺伝子で性格やせっかちさなども決まってしまうのですね。

 

小泉:一方、胎児の時点では、記憶に関する回路は何もつながっていないので、記憶自体もないわけです。生まれる前の記憶があるという人もいますが、きちんと研究すると、それは後からの思い込みだということが分かります。神経の回路がつながって働き出すのは、まず、触覚や手足の動き、そして聴覚です。ものが見えるようになる視覚の神経回路はもう少し後です。

 

阿川: では、胎児は母親のお腹の中で「ぶつかっちゃった」とか「ひっくり返っちゃった」といった感覚をちゃんとわかっているのですか?

 

小泉: そうです。胎児がだんだん育ってくると、足で蹴ってみたりするようになります。触ったことと動かすことによって新しい情報が生まれるのです。じっとしているだけでは何も情報は入ってきませんが、手足を動かすことで子宮の壁にぶつかり、その感触が最初の情報となります。

 

阿川:じゃあ、 お母さんのお腹の中でよく暴れる子は学習能力が高いってことですか?

 

小泉: そのあたりは柔軟で、後からかなり取り返せますので、早く動いた方が勝ちというわけではありません。言葉の習得も同じです。

 

三枝: いわゆる五感のようなものの一番最初の神経回路ができ始めるのは、お腹の中で触ったり蹴ったりすることからだということですね。

 

小泉: そうです。動かすことと触ることによって最小限の外界(環境:自分以外のすべて)の情報を取り入れることができます

 

阿川: 例えば、ここは狭いとか広いとか、そんな感覚ですか? お腹の中で耳ももう聞こえるようになっているんですか?

 

小泉: 聞こえていますよ。我々もそのことを証明しました。フランスとの共同研究でしたが、生後4日以内のたくさんの新生児の聴覚野の活動を、新しい原理の装置で計測して全米科学アカデミー紀要(PNAS)から発表しました。生まれたての新生児が、母語のフランス語に反応を示すのです。

 

阿川: よく「お腹の中に歌を聴かせなさい」と言いますよね。胎教の音楽ですけれど、実際に良い効果があるんですか? 外からの音が聞こえるんですか?

 

小泉: 効果があるかどうかは一概には言えませんが、かなり聞こえています。それから周囲の人たちが話している言葉もです。これは生まれた時点で既に認識しています。

 

阿川: 夫婦喧嘩ばかりしている親だと、そういうイメージが定着して生まれてくるんでしょうか?

 

小泉: はい。情動系の神経回路の発達は早い時期から始まります。声の調子も雰囲気も感じていると思います。だから夫婦喧嘩は間違いなくプラスにはなりませんね。

 

阿川: へえ、面白い。音楽というのは心地よく影響するんですか?

 

小泉: そうですね。私たちのプロジェクトでも、いくつか論文を書きました。音楽が何かという定義からして難しいのですが、心地よい音とそうでない音があり、心地よい音やリズムがプラスの影響を与えることはあります。赤ちゃんがお腹の中で神経回路を発達させる中で、原初的な感覚が最初にできてくるのです。それは直感のようなもので、動物と同じように気配を感じることから始まるのですね。実際、子宮の中にマイクロフォンを入れて研究した例もあります。録音を聴くと面白いですよ。すこしボソボソした音が聞こえます。お母さんが誰かと喋っている音声が子宮の中に届いているんです。水中で音を聞くような感じですが、かなり聞き分けられますよ。

 

阿川: すごいなあ。視覚はその次に発達するのですね。

 

小泉: ええ。最初にお話ししたように視覚には二つの種類があって、高精細で外界を認識する視覚と、高速で直感的に感じるおぼろげな視覚があります。動物も持っている直感的な視覚は人間でも最初のころに発達します。赤ちゃんは胚や胎児の期間に、長い進化の歴史を繰り返しながら生まれてくるのです(「個体発生は系統発生を繰り返す」)。

ですから、「目交」(まなかい)、母親に限らず、男でも女でも、養育者が乳児の目を見て心を通じさせることが大切なんです。赤ちゃんにとってもっとも大切な「愛着」(Attachment)形成の一つでもあるのです。「目交」という言葉は内藤寿七郎先生が使っておられたものですが、赤ちゃんと養育者が目と目で交わるという意味でお使いでした。古語の「まなかひ」とは少し意味が異なるかもしれませんが素敵な言葉だと思います。

 

阿川: 赤ちゃんは直感的に相手の気持ちを感じ取るんですね。

 

小泉: そうです。生まれたての赤ちゃんは正確な視覚をまだ持っていませんが、動物的な視覚で感じることができます。例えば、危険を感じると瞬時に反応します。赤ちゃんにとって、目を見つめられることは心が通じる大事な時間なのです。このように、胎児や赤ちゃんの感覚は非常に繊細であり、早い段階からさまざまな刺激を受け取っていることがわかります。親がどのように接するかが、子どもの成長や学習に大きな影響を与えることが理解できます。

自然の大切さと学習

三枝: 幼児期における自然の存在の重要性についてお伺いしたいです。私たちは経験的に、自然体験が必要だと言っていますが、脳科学的には、なぜ自然が子どもたちや人の成長に必要なのでしょうか?

 

小泉: 一言で言うと、自然は本物だからです。ごまかしたものは人間の成長には要らないんです。大人になってからは必要かもしれませんが、少なくとも最初の発達や成長のときには本物が重要なのです。例えば、造花と本物の植物を比べてみましょう。造花は遠くから見るとよくできていますが、虫眼鏡で見ると、すべてが同じような素材でできています。しかし、本物の植物は虫眼鏡で見ると、見るほどに新しい発見があります。本物にはそういう深みがあるんです。

また、自然の形と人工物の形を比べると、違いが明確です。ビルなどの人工物はほとんどが直線でできていますが、自然の中には、例えばここから見えている森にも直線よりもたくさんの曲線があります。木々には幹のほかにさまざまな枝があり、そして多くの葉っぱがあります。自然の形は非常に複雑で多様です。小さい頃に自然と触れ合うことは、視覚や他の神経の発達に非常に良い影響を与えます。視覚には臨界期があって、その時期にしか発達できない神経回路があるのです。

 

阿川: 今はバーチャル技術がものすごく進んでいて、自然に触れるのもそれを通じてという人が多くなっているように思います。例えば旅行に行かなくても、映像で遺跡や景色を見て「もう見た」と満足してしまう人が多いような・・・。

 

小泉:詩人のゲーテが『色彩論』という本を書いていて、彼自身はこれを最も重要な書としています。彼はシチリア島で空の色や海の色、緑を見て大きな変化を経験し、科学者へと変貌したのです。「色の原理」についてゲーテが言った「心が色を作る」という考えは、少し前の物理学者ニュートンのプリズムで太陽の光を虹色にわけてみて「白色はすべての色が合成されたもの」という考えに対抗していました。大論争を巻き起こしたのですが、今ではゲーテの方が正しかったことがわかってきました。芸術家の直感というのはそういう意識下で働いている。これも本物を見ることの大切さを示すエピソードでもあります。

 

阿川: 今は科学が進歩したことで、いろいろな疑問が解明されてすぎているような気がしますが、脳への影響はどうなのでしょう? 学生時代のテニス合宿の時でした。雷がピカっと光ってゴロゴロ鳴ったんです。その現象をスラスラ解説してくれた後輩をみながら、こんなふうに情報や知識で全て納得してしまうというのは、果たして人間として幸せなのだろうか?と思ったことがあります。怖いなとか綺麗だなと感動して、でもどうなっているのかな?不思議だなと。そういう体験を蓄える方が人間の情操にとって大切なのではないかと思うのですが。子どもたちがWikipediaやネットで調べるとすぐに答えが見つかる今の時代ってどうなんでしょう?

 

小泉: その通りだと思いますね。科学がすべてを解明しているわけではありませんから。まだまだわからないことは沢山あるのに、知ったつもりになってしまうのは勿体無いことです。養老孟司先生ともよく話すのですが、「最先端の科学者は、自分がどれだけ分かっていないかを知っている人」なのです。

私たちの研究所に子どもたちを招いて質問に答える機会がありましたが、子どもたちの質問に本質的に答えるのは難しいんです。例えば、「リンゴが木から落ちるのはなぜか」と聞かれると、多くの学校の先生は「万有引力があるからだ」と答えます。しかし、これはトートロジー(同義語反復)に過ぎません。先生は教科書というマニュアルに書いてることを答えてるだけで、何も本質を答えてない。子どもたちは、本当に「なぜリンゴが下に落ちるのか」という根本的な疑問に興味があるのです。「じゃあ、万有引力っていうのは、どうして生じるのか」「月と地球あるいは太陽がどうして引き合うのか」。今は一応、重力の研究は一般相対性理論を基礎としていて、物理の最先端っていうことになってますけど、未だ解明されていないことが多いんです。

さきほどのお話の雷が発生するメカニズムについても、雲のなかで帯電する基本的な現象が、いまだに電気工学者や物理学者の中では完全には解明されていないのです。音速の霧吹きを作ると微細な霧が強く帯電する新たな現象を見出したときに、その道のノーベル賞を受賞したばかりの物理学者と議論したこともあります。




子どもの「なんで?」にどう答えるか

阿川: 子どもが大きくなるにつれて「なんで?なんで?」という質問が増えてくると思います。その時、親は忙しかったり面倒くさかったりするものですよね。昔の親は大らかで、例えば、「なんで家族は似ているの?」と聞かれたら「同じものを食べているからよ」と適当に答えたり、なんで子どもが生まれるのかを聞かれたら「それは今に分かるさ」と言ったりしてたと思います。それはある意味で、子どもがその答えの真偽を知るまでのプロセス、何かを理解するまでの時間を大切にしていたのではないかと思うのです。
でも、今の親は正確な情報や知識を早く与えなければと思いがちです。子どもが質問すると、すぐに答えを教えたり、先回りして「昨日話したでしょ」と言ってしまうことが多い。これでは、子どもが「なんでだろう?」と考える時間を奪ってしまう気がします。脳にどんな影響を与えるのでしょうか?

 

小泉: 子どもに考える時間を与えないのは、子どものやる気をなくしてしまいますね。子どもは諦めるようになりますし、何も考えずに済むという習慣がついてしまいます。忙しい最中に子どもが足にまとわりついてきたり、少し大きくなってからいろいろな質問をしてくると、確かに大変だと思います。でも、親がそれに付き合い切れなくなって適当な答えをしてしまうのもまた、その適当な答えが嘘だと子どもは気づき、興味を失ってしまう原因にもなります。わからない時は「不思議だね、どうしてだろう?」と一緒に考えられれば理想的です。

 

阿川: じゃ「なんで家族は似ているの?」と聞かれて「同じものを食べているから」と答えるのはダメなんですか(笑)?

 

小泉:それは結構、本質的な答えになっているかも知れません。実は生命の本質は食べることにもあるからです。人間のすべての細胞は数か月ほどで新しいものに置き換わります。全部素材が入れ替わっているのに、数か月後の阿川さんはやっぱり阿川さんですよね。これを「動的平衡」といって生命を理解する大事な概念なのです。ですから細胞が入れ替わる間に食べるものが違うと生命の素材も変わってくるのです。人間の身体は沢山の異なった同位体原子からできていますが、同じものを食べているとこの同位体比が似てきます。この同位体を測る物理がとても進歩して、今では、飲もうとしているワインの産地や年代まで同位体比だけでわかるのです。

でも、相手にしないで適当に誤魔化す答え方はダメですね。ただ、それでもめげずにしつこく質問を続ける子は、将来学者になるかもしれません(笑)。やはり、できるだけ子どもと心を通じ合わせる時間が大事です。よくわからないから一緒に考えてみようよと言うと子どもは喜びます。幼稚園や保育園の時期には、できる限り対応することがすごく大事なのです。先回りするのでなくて、子どもの方から聞いてきたら答えるということです。忙しい時代になってしまったから、一番大切なことが忘れられてしまいがちです。

三枝: 子どもたちが次に何をするのか親に聞いているシーンをよく見かけます。時間があるなら好きなことをすればいいのに、「宿題をしなさい」「ゲームは30分まで」と親がすべてを決めてしまう。これは良くないと感じています。

 

小泉: はい。さっきの視覚の話と関係がありますが、本質的なところを実験するとすぐに分かります。例えば、子猫を縦縞の中で育てると、縦線しか見えなくなります。これは、縦線の環境だけで育てると神経回路がそれに適応してしまうからです。神経回路は外からの情報によって作られるため、環境が非常に重要なのです。子どもが環境から刺激されて脳が造られて行くのです。親がなんでも先回りすると、大切な環境からの刺激を取り上げてしまうことになります。

先ほどお話した通り、人間の神経回路は、生まれた時には遺伝子情報としての素材だけが用意されています。それをどう組み合わせていくかは、外からの情報によって決まります。どうやったら役立つものになるかっていうのは、全部外から入ってくる情報で経験をしながら学んでいく。それが人間の発達なんですね。「三つ子の魂百まで」に似た言葉は世界中にあり、それは科学的にも正しいと言えます。

視覚や聴覚、五感を通じて神経回路が形成することが「学習」です。「教育」とは、足りない刺激を補い、不適切な刺激を少しカットしたりして「学習」を補助することであり、これを科学的に理解することで、教育の方向性が明確にわかってきます。OECDで10年以上にわたり、世界中の教育に役立つ研究を行いました。北米、欧州、アジア・オセアニアの3つのブロックで分業して進めました。私は国際諮問委員としてOECDの本部と一緒に全体を組み立てました。「教育」と「学習」をサイエンスとして位置づけるアプローチによって、教育の本質がかなり明らかになりました(原著:OECD, 邦訳:小泉英明監修:『脳からみた学習新しい学習科学の誕生』、明石書店(2010))。




子供の成長と自然

阿川:子どもに本物の自然と接する機会をたくさんつくることは重要だと、私も思います。しかし、都心に住む多くの家庭では、田舎に引っ越すとか、大自然の中で育てることは現実的ではありません。例えば、東京でも緑や土は探せばありますし、都会でも耳を傾ければ鳥の声が聞こえます。自然豊かな場所に住まないと良い子どもが育たないというわけではないと思うんです。

 

小泉: その通りです。以前、大きな事件を起こした子どもがいましたが、その子は家族と山の上の一軒家に住み、自然に恵まれていたにもかかわらず、近くに友達がいなくてゲームに依存していました。自然に恵まれた場所に居ても無関心なら意味がないのです。逆に、都会でも自然に関心があれば、多くの自然と触れ合うことができます。

私は各地の保育所・幼稚園・こども園を訪問してきましたが、大阪のビルの間の狭い空間にある保育所は印象的でした。自然が全然ないので、ベランダや屋上に鉢植えを置いて植物を育てていました。その中で、保育士さんたちが工夫をして、いろいろな種類の柑橘類を育てたんです。すると色々なアゲハ蝶が柑橘類に惹かれてやってきて、子どもたちはサナギから成虫になるまでの過程をつぶさに観察できました。これも立派な自然体験です。

私も子どもが小さい時、田舎で育てましたが、東京に戻ってきた時に自然がなくなることを心配しました。でも、道を歩いていると街路樹があります。最初は娘がするすると上まで登ってしまうので困りましたが(笑)、はがれかけている木の皮の裏に不思議な形をしたテントウムシの幼虫を見つけたりして、都会でも自然と触れ合うことができることに気づきました。

 

三枝: 阿川さんのおっしゃる通りで、今の現実問題として、一昔前のように大自然の中で生活することは難しいですよね。ですから、どうしたら本当の意味で「気づき」が生まれるのか、考えなければなりません。
都心のコンクリートジャングルの中にも、自然は存在します。例えば公園の紅葉している落ち葉も自然物です。しかし、本来の紅葉の経験がないと、それがどういうものか、その美しさを子どもたちは認識できないかもしれません。都会の小さな自然を味わうにも本物を知った上で、なのかもしれないと思うのです。

先日、C.W.ニコルさんの再生したアファンの森に伺いました。その森にはフクロウが戻ってきて、巣箱で子育てをしていることは知っていましたが、アファンセンターの方が「あそこにフクロウの赤ちゃんがいますよ」と教えてくれてようやく気づけたんです。赤ちゃんは飛び立つ前のほんの1日か2日、巣から顔を出すそうです。ただ自然の中に身を置くだけでなく、気づきに導いてくれるナビゲーターの存在が必要だと思います。

我々のプログラムでは、人と場を大切にします。そういう本物の環境に身を置く中で、子どもたちが「気づき」を得ることが非常に重要だと考えているからです。この「気づき」が、その子の興味や将来につながる何かの糧になるのではないかと信じながらプログラムを作っています。「気づき」というものが脳科学的にはどう捉えられるのか、伺いたいと思います。

 

小泉:それが学習の本質なんですね。私の身近な例で言いますと、子どもたちを休みの日に海辺へ連れて行ったことがあります。那珂川河口付近の大洗海岸でしたが、そこで綺麗な石を見つけて「これ何?」と聞かれたんです。調べてみるとそれは、珪化木(太古の樹木がそのまま二酸化ケイ素で置き換わった化石)で、宝石にもなるものでした。「珪化木はどこから来たんだろう?」と家族プロジェクトが始まりました。週末に川を遡って珪化木を探し続け、最終的に3年間かけて、山奥の渓流の岩盤に太い幹の形を遺したものを見つけることができました。長い期間がかかったのは、家族プロジェクトのルールにあったかと思います。地質図を調べたり、専門家に聞くことを一切しないというルールです。すべて家族のなかで話し合って、子どもたちの考えと希望で、次の週末の方針を決めるのです。

この経験を通じて、子どもたちは「ふだん見えないものに気づく力」を身につけました。最初は親より子どものほうが、化石を見つけるのがすぐに上手になりました。川原では、石の周りが白っぽい砂で覆われてるから、石コロがみんな同じように見えるんですよ。でも、形とか、それからちょっとした光の反射の違いで「これ化石だ!」っていうのがある。最初はまず手にして、洗ってみて化石だと確かめていたのですが、数か月したら何メーターも離れている遠くから、あれは化石だと気付けるようになりました。支流が合流している場所で、化石探しをやって、化石が見つかった方の支流へと遡っていったんです。冬は凍った滝つぼを登ったり、家族全員がワクワクした体験でした。(養老孟司先生が面白がって、もう一つの家族プロジェクト「知られていない縄文遺跡を探し出す」の方を、ご自分の本に紹介してくださいました。)

視覚というのは、外部のものを分解して再構築し、自分の内部世界で認識しているわけで、他の人が見ているものと自分が見ているものは違っている。ただ、共通点が多いから互いに話ができる。これが基本なんです。
経験を積み重ねていくと見えるというのは、刀なんかは典型的な例ですけれども。素人は視覚野が専門家とは違うから、銘のところを隠してしまうと、どの時代の誰の作だっていうことが、刃を見ただけで分かったりはしないんですね。でも訓練を重ねると見えなかったものが見えるようになる。「気づく」ということは内部世界が広がることであって、全てにおいて、生活が豊かになるということと繋がるわけですよね。ここでも、自然の中の本物を見ることが大切ですね。

先ほどの話にオチがあって、下の子どもが幼稚園の頃だったんですけれど、帰ってきて「珪化木見つかったよ」っていう。うちの玄関の前に落ちてたって。つまり、道路工事で運ばれてきた砂利の中にあったんですよ。
身近に発見のチャンスはいくらでもあります。見えているかどうかの話なのですだから、新しいイノベーションも本質を理解し気づくことで生まれます。そして、もうひとつ、そこにパッション、情熱があることが、見えるために非常に重要だということを加えておきます。




ぼーっとする時間の必要性

阿川: 経験というものはリピートが必要で、続けることで効果が出ると思います。サヱグサさんのこのプロジェクトもそうですが、子どもにあらゆる良いことを経験させたいと考える親は多いです。例えば、本物の音楽を聴かせ、本物の食べ物を食べさせ、友達との交流もさせたい。そうすると、スケジュールがどんどんキツくなっていきますよね。

以前、東京子ども図書館の松岡享子さんにインタビューしたとき、最近の子どもたちの活字離れについてどう思われるかお聞きしたら、「何もいっぱい本を読んだ子のほうが偉いとか、長時間読書の時間を作るほうが偉いとかいうことではない。1日30分でもいいから、本と接触するという時間があればそれで私は十分だと思います。むしろ何がないかというと、本を読んだ後の時間が子どもにはない」とおっしゃっていました。

確かに、私たちの子ども時代には、ぼーっとする時間がありました。その時間があることで、物語の中の魔法使いやサンタクロースを想像し、引き出しを膨らませていくことができたんです。松岡さんは、「ぼーっとするっていうことに、この本を読んだ意味がある。その本の中身で得た知識と情報はそれほど大事なことじゃない」っておっしゃったんです。それがとても心に深く刻まれています。現代社会では、二週間前の災害のニュースも忘れてしまうくらい毎日が忙しい。親がそこまでの忙しさを子どもに強いることが、果たして良いものか疑問に思います。

 

小泉: ぼーっとするのは大事ですよ。

 

阿川: 脳にどういう影響を与えるのですか?

 

小泉:ぼーっとすることは、瞑想などと同じように脳が自由になる状況を与えます。ぼーっとできないと考えが固まってしまい、同じところを何度も使っているうちにそこから抜け出せなくなります。AIも同じ原理です。人間の神経科学を模倣しており、同じパターンを繰り返すことで、そのパターンが重要だと判断するように設計されています。非常に高速で処理するため、あたかもすごいことをやっているように見えますが、実は人間と同じ原理に基づいて動いているのです。人間の脳は同じ思考回路を使い続けるとそれが重要だと認識してしまいます。それが意識下で知らないうちに起きるのです。脳内の「拘泥」から解き放たれることが、発明・発見などの創造性の要(かなめ)です。

少し話が横に逸れますが、AIといえば、今、世界中で生成AIが話題というか問題になっていますね。私も、そういう関係で聞かれることが多くなりましたが、先ほど触れた現生人類(ホモサピエンス)のみが持つ非常に重要な二つの要素の一つが、生成文法を持った「言語」です(もう一つは同情などの「高次の共感性」)。例えば、私の敬愛する言語学者のチョムスキー(Noam Chomsky)先生が発表された例があります。日本語で「色のない緑色の考えが激しく眠る」という文章です。この文章は、文法的には正しいけれども意味を成しません。この例を通してムチョスキー先生は、「文法的に完璧でもまったく意味を持たない文章が存在する」ことを示しました。例えば「地獄」や「極楽」という言葉は誰も体験したことがないのに、皆がその概念を理解しています。これは言葉の力であり、人間の言葉には、本質的に意味がないことや完全に間違ったことを形式的に完璧に表現できる力があります。これが生成AIの本質的な問題に関連しているんですね。

 

阿川:怖いですね。

 

小泉:実は、原始仏教の経典を見ていくと、釈迦自身は地獄極楽のような未来や宇宙の果てについて言及せず、「今どう生きるか」が大切だと説いていました。これは本来の仏教の哲学性を示しています。日本に仏教が到来した当初は神仏習合といって、土着信仰の神道と仏教が融合していました。神道の考え方は、一神教とは異なり、「自然の中で人間が生かされている」という考え方に基づいています。
今の非常に混乱した世の中というのがある意味で、一神教の国々で起きていることを考えると、古来から自然を重んじてきた日本の文化は、これからの世界において重要な役割を果たす可能性があると思います。その基盤には教育があり、間違わないように学習や教育の本質を伝えることが大切です。それが今の世の中の混乱や戦争の解決の鍵となるのではないでしょうか。

 

三枝:今のお話は、自然体験の重要性に繋がるような気がしますね。

阿川:日本は子どもに哲学を教えるということはほとんどやってないと思うんです。フランスでは子どもの頃から哲学をきちんと教えていて、物の見方とか判断の仕方を哲学に基づいて考えさせているそうですよね。「世の中はこんなもんだ」とか「人生はこうだ」とか、繰り返される現象を通じて自分を納得させることができるんでしょう。哲学の言葉がよく意味がわからなくても、それを一生懸命考える時間を作るということをする。

一方で、日本ではどんどんわかりやすく、便利にすることが求められていて。本当は、「面倒」「ややこしい」「わからない」ということが人間の脳にとってすごく大事なことじゃないかと思うんですけれども、逆行しているような気がします。色々な体験をさせた結果、子どもたちにはすべてを理解させたいと思う親もいるでしょうが、わからないものはわからない、自分で考える時間を与えることも大事なんじゃないかと思うんです。

 

小泉: 実際に子どもっていうのは、保育の方たちとよく議論しますが、思っているよりも強いんですよね。昔に比べて生まれたときにいろんなリスクがなくなっている部分はありますけれども、ある程度のところまで育ったら、生きる力っていうのは本能的に持っているんです。ですから、すべてを大人が前に出てやってしまうというのは、子どもたちに目隠しして猿ぐつわをかませるようなものなんですよね。それを教育だと勘違いしてしまうことが問題です。

今おっしゃったように、やっぱり自由にさせないといけない。その上で、本質的に間違っているところはきちんと是正する必要があります。教育とは、子どもたちが自分で考え、学び、成長するためのサポートであるべきです。それを忘れてしまっては、本来の教育の意義を失ってしまいます。マニュアル人間のような人々が増えてしまったら、国も廃れるし、人々の幸福も遠のいてしまうと感じます。




人間として進化の中でもっとも大切な「共感性」

阿川: 自分たちは今たいそう便利な環境にあり、暖かくて寒さからも守られ、暑さからも守られ、蛇口をひねればお湯が出るのは当たり前。そうじゃない人たちはかわいそうっていう価値観を決めつけている人が多い気がするんです。

私がエチオピアに行ったときに、取材の車がエンストして動かなくなっちゃった。山道で。裸足の女の子が、谷の下からこんな大きなツボを頭に抱えてニコニコ笑いながら、「水に困ってない?」って近寄ってきてくれたんです。そのときに私は、エチオピアのかわいそうな子どもたちを助けるために取材に来たのに、この子に助けられるとは何だと思いました。何が幸せだろうって考えて、「この子に運動靴を与えることが幸せなのか?違うんじゃないの?」って気がしました。戦地にも行きましたけれども、もちろん戦地にいる子どもたちはかわいそうで、死ぬか生きるかの経験をしています。でも、ドンドンと銃撃が飛んでいるところで子どもは遊んでいたりするんですよね。

子どもたちは、どんな環境の中でも自分が幸せで安心なところを見つけられるという本能を持っていると思うんです。子どものほうが敏感で利口だと感じました。これは言いにくいことですが、災害地の子どもたちのたくましさには、とてもじゃないけど、かなわない。災害や戦争の体験はない方が良いに決まっているけれど、でも嫌なこと、つらいこと、悲しいことをある程度経験することも大事なのでは?それを全部避けて、心地よい幸せな空気だけを子どもに吸わせる教育は違うんじゃないかなって思います。

 

小泉: 素敵なお話ですね!本当におっしゃる通りだと思います。お水の女の子のエピソードはすごくいいお話です。それはまさに「共感性」ですね。相手の気持ちがわかっているからそういう話が出てくるわけで、幸せはどこから来るかっていう話です。そういうものが人間にとって本当は原点で一番大事なはずなのに、忙しい世界の中で消えてしまっている場合がたくさんあります。逆に、不自由な思いをするところで人のことを考えられるようになります。被災地の場合も、困った方たちのほうが、自分のわずかな持ち物をどうやって他の人に役立てようか、人に優しくなります。わずかしかお役に立てなかったのですが、石巻の方々のお手伝いを続けて13年、優しさばかり身に沁みました。

 

阿川:能登にもちょっと行きましたけど、被災した人たちって、信じられないくらいに優しいですよね。

 

小泉:さっきお話ししたように、「共感性」や「言葉」など、人間として進化の中で大切なものがいくつかありますけれども、サイエンスの方からそれらの本質がだんだん見えてきます。その本当に大切なところをきちんと、学者も政治家も教育者も、みんなで理解することが、これから必要だと思うんです。サイエンスの活用というのは本質的なところに使うべきであり、周りを一見して面白そうなところや、きらびやかに見えるところがサイエンスの本質ではない。サイエンス自身は、先ほどお話ししたように、本当に進んでいる学者は自分がどれだけ分かっていないかをきちんと理解していること。それが原点なんですね。この2000年の間、これが科学だと言ってきたものが、時代が進むと間違っていることもいくらでもあります。そういう謙虚さを持って一つ一つ先へ行く、そういうやり方が教育でも必要じゃないかなと思います。

さきほどのエチオピアのお話で感動して思い出したのですが、かつて世界保健機関(WHO)がマラリア撲滅のプロジェクトを展開したときのお話です。マラリアで苦しむエチオピアの悲惨な村で献身的な仕事をなさった熱帯病学者が、プロジェクトに成功した後、何年かたって別の機会にその村を訪れた時のことです。先生は、きっと大歓迎してくれるだろうと思っていたそうです。ところが結果はまったく反対でした。かつてその村はマラリアで幼児死亡率が高く、悲しみの絶えない村だったそうですが、マラリア撲滅プロジェクトが成功した後、急激に村の人口が増えて、子どもたちへの食べ物の奪い合いになって村人の心がたいへん荒んでしまったのだそうです。その先生が、「私たちは何をしたことになるのだろうか?」とおっしゃったのは私にとってショックでした。システム全体を俯瞰することの重要性と、謙虚さの大切さを強く感じました。




上澄み教育の問題点

三枝 : さっき阿川さんがおっしゃったように、ぼーっと考える時間はすごく大切だと思います。ですから今、スケジュールを詰め込まないことを意識してプログラムを開発しています。例えばアファンの森に行くときには、1〜2時間、それぞれが森を五感で感じる時間を設けるようにしています。これが先生のおっしゃることに効果的に繋がっているのでしょうか?もちろん「ここで森を感じなさい」とは言いません。それをしないのが目的です。最低限の環境を整え、そこでどう感じるかは子どもたちに任せています。答えがないことなので、そういう時間や環境をプログラムに取り入れようとしているのです。

 

小泉 : それも脳の本質と直結した話で、ぼーっとしている時間はものすごく重要なんです。脳の構造から言って、人間の神経による情報処理は非常に遅く、最も速い神経でも1秒間に200メートルしか進みません。一方、コンピュータの情報処理は光の速度に近く、1秒間に地球を7周半する速さです。このため、速い処理をするコンピュータが優れていると勘違いされがちですが、速さだけの話です。

人間の脳が非常に遅いにも関わらず高度な処理ができるのは、分業によっているからです。脳は見ているものを処理する際、一度分解し、それぞれの場所で別々の処理を行い、最後にそれを統合して一つの内部世界を形成します。この分業中の処理は意識に上がらないため、私たちが考えていることは脳全体の処理のごく一部、いわば「上澄の上澄み」に過ぎません。脳全体では意識に上がらない大量の処理が行われています。このため、意識に上がった部分だけで教育を行うと問題が生じるのです。

ぼーっとしている時間は、意識に上がらない部分を使っている時間であり、瞑想も同様です。その無意識の中から本質的なものが浮かび上がってくる時間なので、非常に重要なのです。

 

阿川 : そうすると、今は何でもかんでもスピーディーになっていて、コンピューターだけじゃなく、テレビ画面の映りも速くなっているし、クラシック音楽だって作られた頃と比べるとものすごくスピードが上がっているって聞いてますし、喋るのも速くなっているし、こういうのはどうなんですか。

 

小泉: それはすべて上澄み、表面的な部分に過ぎません。

 

阿川: 表面的な部分だけで生きているということですか?

 

小泉: そうです。すごく浅はかになっているわけです。

 

阿川:それで「理解が遅い」と子どもを焦らせるでしょう?

 

小泉:そうすると、子どもたちは表面的な世界にどっぷり浸かってしまいます。いくら表面的な部分を強化しても、それだけでは意味がありません。大切なのは土台の部分です。

 

阿川: だからこそ私は、無駄なことをもっとやるべきだと思います。日本はパフォーマンスばかり追い求めて経済を上げようとしていますが、もうここまで落ちているのだから一度ダラダラしてもいいのではないでしょうか。何の利にもならないことに喜びを見出すべきだと思うのです。

 

三枝: そうですね。表面的なことばかり追い求めていると、本当に大切なことが欠けてしまいます。無駄なことを排除して必要なことだけをやろうとすると、みんながその表面的な部分に巻き込まれてしまいますね。

 

阿川 : 日本は文化や芸術を、経済的に余裕がなくなると、金にならないと言って削ってしまいます。余裕があるときには投資することもありますが、経済が厳しくなると真っ先に切り捨てられますよね。どっちが大事なんでしょうか。

例えば、フランスはすべてが良いわけではありませんが、文化や芸術は残すという考え方があります。それは哲学を学んでいるからだと思うんです。日本の政治家で哲学を学んだ人はいるのでしょうか。アメリカとの交渉においても、日本には本質的に考える政治家がいないのではないかと感じます。目の前の損得しか考えないから、いやんなっちゃう。

デジタル時代に見落としてはいけない本質的なもの

三枝 : 先ほどAIのお話が出ましたが、これからもデジタルの革新や技術の進化が続いていきます。そこで最後にお伺いしたいのは、そのことと子どもたちの本質的な部分との関係性や、子どもの未来に向けてどうあるべきかということです。上澄みだけが流れていく、その速度がどんどん早まっていくことへの危惧がありますが、それについてどう考えればいいでしょうか。

 

阿川: 今の子どもたちに、私たちのノスタルジーで大自然に帰れ、携帯電話を捨て、テレビゲームをやめなさいと言っても無理でしょう。どうしたってこれらと付き合っていかなければならない。AIが進化していくと、子どもたちの学びもますますコンピューターに頼るようになる。それを止めるのは何なんでしょう。

 

三枝 :  もちろん進化が止まるべきだとは思っていませんし、100年前に戻った方がいいとも思っていません。しかし、これからの子どもたちはコンクリートジャングルの中で生まれ育ち、デジタルの進化の中で成長していかなければならない。理想から少し離れた環境で、どうやって彼らと付き合っていくべきか。また、どんなことを子どもたちにしてあげるべきなのか、いつも考えています。

私たちが現在できていることは本当にわずかですが、大自然の中に移住できない以上せめて、なるべく自然に触れ、気づいたり感じたりできる時間を作ってあげたい。さらには、本物の自然だけでなく、身近にいる親や先生以外の人間との関係性も重要だと思っています。隣のおじさんの家の柿の実を盗んで怒られる、そんな経験も今はなかなかありません。

 

阿川 : この間、埼玉に行くために電車に乗ろうとしたんですが、どの電車に乗ればいいか分からなくて、すぐ人に聞いたんです。でも、周りを見たら、みんなスマホで行き方を調べてるんですね。今では、人と直接接触することがなくなってきています。見知らぬ人に「すみません、どうやって行けばいいんでしょう」「次はどこでしょう」「何線に乗ればいいですか」と聞くこともなくなりました。さらに、電話も自分の携帯で知っている人にしかかけませんし、電話自体も使わないとか。結果として、隣のおじさんが柿を持っているかどうかも知らないし(笑)、その人の声がどんな声なのかも分からない。つまり、人間同士の生の接触をどんどん避けて生きるようになっています。そして、子どもたちもその影響を受けています。

この間、「コミュニケーション能力を育てるためには、どうすればいいと思うか?」と聞かれたときに、「知らない人に道を聞いたら?」と答えました。知らない人に道を聞くという経験を通じて、いろんな人がいることに気づくと思うのです。直接的な人との関わり合いから学ぶことは多いと思います。

 

三枝 : 僕はネットは、自分が考えるべきことを答えてもらうためには使いませんが、道を調べたり、ちゃんと答えのあるものを調べるのには非常に便利ですし、適宜使っても良いと思います。それが一番良い方法だと言っているわけではなく、仕方ない流れだと思っています。でも、今は、「私ってどうやって生きていったらいいの?」という質問すら、チャットGPTに聞く時代になってきていますね。それはいくらなんでも、とは思いますね。しかし今は、2歳の子どもでもスマホを渡すとすぐにスワイプします。そんな時代に育つ子どもたちに対してどのように接し、どう考えてあげれば良いのか、これからの課題だと思っています。

 

阿川 : デジタルの影響が子供の脳に悪影響を与えることはないのでしょうか。

 

小泉: 非常に大きいと思います。

 

阿川:でも、業界の利権ばかりが優先されて問題が見えなくなってしまっていませんか?

 

小泉 : 今おっしゃったように、現在の政治には多くの問題もあります。例えば、アメリカではロビー活動が正式に認可されており、これによって多額の資金を使って活動が行われています。そのため、大統領が銃規制を訴えてもなかなか改善されなかったりしています。

日本でも20年前は、ゲーム業界が「子どもたちに悪影響を与えないように気をつけなければならない」と真剣に考え、ゲーム会社の社長の皆様が集まって勉強会を開いていました。電磁波の問題や、ゲームの習慣性が子どもたちの生活に悪影響を与えないようにする方法を真剣に議論していて、私もよく講演に呼ばれました。しかし、ゲームによって企業が大成功すると、問題点を見過ごしてしまうようになりました。その結果、資金が政界やマスメディア、アカデミアに流れ、メディアでもこの問題を指摘しにくくなっているといわれます。

例えば、日本にはゲームやギャンブル依存症を専門に扱う国立病院が一か所しかありませんが、そこも大変な状況が続いていました。私も根本的な解決策を考えていますが、現状は非常に厳しいです。こうした現実の問題の中で、特に子どもの教育には多くの課題があります。OECDでも格差や公平/衡平の問題が議論されていますが、最後に行き着くのは教育です。教育に真剣に取り組まないと解決できない問題が多いのです。私も東大大学院教育学研究科・教育学部の外部評価委員をしていましたが、ゲーム問題に関する研究はありませんでした。教育学部は東大の中では小さな部局で、広範な教育研究を行う予算がないのです。海外にも日本にも教員を要請する大学はたくさんあるのですが、教育や保育自体の多面的・重層的な研究をする国立大学あるいは部局が必要だと感じています。国策として教育や保育に本気で取り組むことがますます重要です。これは国家政策でも教育は古くからの大問題で、例えばプラトンの名著『国家』はかなりの部分が教育について述べられています。

 

三枝:子どもが成長する過程で、教育は非常に長い期間を要します。特に終盤には知識を吸収することも重要ですが、前半の段階では「知ること」よりも「感じること」が大切だと考えています。考える力を育てることがより大切だと感じていますがどうでしょうか?

 

小泉:それはまさに進化と直結した話です。一部をお話ししたように、人間の脳は、38億年前の最古から現在まで、ずっと進化を続けてきました。脳はどこかで突然変異で作り変えられたわけではなく、昔から少しずつ変わってきたのです。お腹の中の赤ちゃんには一時的にしっぽがあり、進化の痕跡を残しています。つまり、38億年の進化の過程を十月十日に圧縮しているわけです。
脳の進化は内側から外側へと進んでいきます。中心部分は生きるための基本的な機能を担っており、心臓のコントロールなどが含まれます。脳幹と呼ばれる中心部分は、生命維持に直結しているので、ここを傷つけると命に関わります。そこからさらに外側へ進化し、最後に大脳新皮質が形成されました。この部分が、人間特有の高度な情報処理や意識的な思考を司ります。

現在の教育は、マニュアルや教科書を使って、この大脳新皮質の上澄み部分を対象にしています。確かにこの部分は人間にしかない非常に重要な機能を持っていますが、これだけでは不十分です。脳の中心部分には、野生動物時代から引き継いできた本質的な機能が含まれています。例えば、意欲やパッションといったものは、脳の深い部分に位置しています。最初は強い意欲がほとんどなく、爬虫類の時代から徐々に発達してきました。捕食行動などから意欲が生まれ、それが進化の過程でどんどん発達してきたのです。

現代の教育では、この意欲やパッションが見えなくなって来ています。意識の下にある部分から生まれるもので、直接見えないため、教育で取り上げにくいのです。しかし、これがなければ、どれだけ外側(最後に進化した大脳新皮質)の高度な教育をしても意味がありません。例えるなら、図書館に素晴らしい蔵書があっても、誰もそれを読まなければ意味がないのと同じです。つまり、教育で真ん中の部分(大脳旧皮質/辺縁系)をしっかりと鍛えないと、外側の教育だけでは本末転倒です。現在の教育に問題があるのはこの点です。意識に現れる上澄みの部分ばかりを重視し、意識下の本質的な部分を無視すると、本当に大事なことが見落とされてしまうのです。

パッションを大事に育てる教育

三枝:いわゆる学校では、算数や国語、理科、社会の点数で評価されることが多いですが、僕は全く興味が持てず、勉強もほとんどしませんでした。ただ、落第は避けたいのでギリギリでやり過ごしていました(笑)。しかし、もし小学生の頃に「世界一の建築家になる」というパッションがあったら、国語や算数も必要だと感じていたでしょう。そして学んだ一つ一つのスキルを活かせるようになるのではないでしょうか。人によって様々だと思いますが、そのパッションが勉強や知識を活かすことになりますね。

 

小泉:そうです。パッションという人間の根本(ねもと)を大事にすることが必要です。枝葉の部分ばかりを忙しく教育しても、それは本末転倒となりかねません。

 

阿川:枝葉の教育しないためには、学校の先生や親はどう教育すれば良いのでしょうか。

 

小泉:今の教育は意識に上がっている部分ばかりに焦点を当てていますから、教育がワンランク上がらないといけないと思います。保育所・幼稚園・こども園でも、そういうことに気づいている先生たちがいるところではまともな教育をしています。園長先生の中には、根本を重視することに気づいている方も多いです。そうした取り組みを広げないと、現在のような政治や社会では人間の弱点が表に出てしまうのではないかと心配しています。ソニー教育財団のお手伝いを約20年間、理事や幼児教育支援プログラム審査委員長としてやって来ましたが、目標の「科学する心を育む」というのは、そのような考え方から生まれてきたものです。

 

三枝:我々は、理想論ばかりに陥らないように気をつけなければなりませんが、学校や家庭の教育の補完的な場として存在し、パッションに繋がる「気づき」を提供したいと思っています。現代の子どもたちは忙しいですが、その中で少しでも関わらせてもらって、子どもたちの未来につながるような「気づきの場」を作りたいと考えています。

 

阿川:何かをやめさせないといけないですね。いろんなことをやらせるほど、子どもは忙しくなり、一つに絞るのが難しくなりませんか?小さい頃から一つのパッションを持つ続ける子もいるでしょうが、そうでない子もいると思う。18、19歳までにそれを見つけるのは難しいですよ。いろんな人との出会いや経験を通して自分の得意なことに気づくこともあります。小さなうちから「何か見つけなきゃ」と親が焦らせる必要はないんじゃないですか?好きなことをやってても何が得意か分からない子もいていいんですよ。私は40歳まで何がやりたいのか分からなかったですから。

 

三枝:でも、立派に生きてこられたのですね。

 

阿川:なんとかね、うわばみだけで生きてきたんだなあ(笑)。

 

三枝:スピードは関係ないのかもしれません。人生は長いですから。我々が提供した何かによって子どもが気づく瞬間があり、それが、たとえ何年も何十年も後だったとしても、いつかパッションとして現れれば成功です。選択肢を広げてあげることが大事だと思います。

 

小泉:非常に基本的な話だと思いますので、やっぱり今の子どもたちが今度親になった時代をも考えて、教育を改善していかないとと思うんです。

 

三枝:30年後、50年後の未来社会へつながる、本当の教育ということですね。

 

阿川:年金なんかもらえない、経済がどんどん悪くなり、そうそう贅沢なことができなくなる時代に、「何が楽しいかな」っていうことを探せる逞しさが必要なんじゃないかなと思います。

 

三枝:それこそが「生きる力」ですよね。心してプログラム作りをしていきます。

 

小泉:阿川さんのお父様が怖かったっていうことにも、すごく素敵な部分があると思うんです。今日は時間がなかったのでそこまで話がいかなかったので、今度お聞きしてみたいです。

以前、先代の市川團十郎さんと対談したときにも似た話になりました。阿川さんのお父上のように、團十郎さんのお父上も歴史的な人物でいらっしゃいましたが、自分の息子と区別なく他の宗家の跡継ぎにも極めて厳しく指導されたようです。でも、跡継ぎの方々と一緒にお酒を飲むと、「お前のおやじには随分ひどい目にあわされたよなあ・・・」と懐かしそうに、そして嬉しそうに皆が語るのだそうです。最初に褒めて育てるという話が出ましたが、褒められるのは乳幼児期が中心で、ある年代からは厳しく修行することも必要です。初めて駄目出しがなかった時に、やっと褒められたように感じてすごく嬉しくなったとも伺いました。

 

阿川:私自身の経験がすべて良いとは思いませんし、「怒られたことがないんです」というのに素晴らしい方にお会いしたとき、「そんな人もいるんだな」と驚きました。でも、ひどい目にあった経験が増えれば、それだけネタも増える(笑)。ひどい目にあったことが後に笑い話になるぐらいになった時、「自分は強くなったな」と感じるのも悪くないですよ。

今の親御さんは、本当に正しくあろうとしなければならないと思っていて、それが辛いのだろうと思います。親だって完璧じゃないですよね。ダメなものはダメだという理不尽さを、子どもがどう適当にかわして生きていくか。それでも、子どもはちゃんと育っていくんじゃないでしょうか。